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● 第一展示室 江戸時代の丁度中期に当たる1743年、今の福岡市姪浜に生まれた亀井南冥は、父のあとを継いで医者となり、同時に儒学者として名を残しました。 南冥は、1784年2月、福岡藩藩校「甘棠館」の館長に任命され、同月には志賀島で発見された「金印」の鑑定を行うなど脚光を浴びましたが、同時に設立された藩校「修猷館」の教義である朱子学が、幕府の公式教義となったことから、各藩も影響を受け、1798年には甘棠館は廃止されてしまいます。 その後は、長子の亀井昭陽が開いた私塾「亀井塾」を手伝う形で、多く集った門下生の教育に当りました。後に亀井学といわれるものは、南冥〜昭陽とつながる学問であり、朱子学が、「上下定分の理」などの考え方から、「武家政治の基礎理念」とされたのに対して、(荻生)徂徠学の流れを汲む南冥・昭陽の教えは、政治と宗教道徳の分離を説くものであり、言論の自由や、人夫々の持ち味を生かした教育を基本としており、これらの教えは、門下生やその弟子を通じて、近代まで連綿とつながっていると言えましょう。それらの代表的な人物としては、広瀬淡窓、福沢諭吉、更には政治結社「玄洋社」を通じて、高場乱、中野正剛、緒方竹虎にまで及んでいます。
● 第二展示室 江戸時代の博多湾は、福岡藩の藩米を廻送する千石船で賑わいました。全盛期には江戸、大阪はおろか東北、北海道にまで船足を伸ばし、江戸幕府や他藩の米、民間の材木、海産物の物流をも担いました。 この廻船業に従事したのが能古、今津、浜崎、宮浦、唐泊の五つの浦の船団で、この史実は1975年、民間の優れた研究者・高田茂廣氏が調査報告を刊行して専門家の注目を集めるようになりました。 中でも能古の船団は、全体約50隻の中で半数近くを占め、その活躍は「能古島が最も輝いた時代」といわれています。地元の小中学校では今なお石碑や校歌、学校新聞に当時の雄船の名を残して偉業を讃え、誇りとしています。
★牛島竜介さんを忘れていませんか 多くの福岡市民がヨットマン牛島竜介さんを忘れていたようです。たずねても「知らない」と答える人がほとんどでした。昭和時代に博多湾で育ち、世界に羽ばたいた若者です。 能古博物館が検証しなければ、再び陽の目を見ることはなかったかも知れません。 40年ほど前、牛島さんは世界で初めて太平洋をひとりで往復航海しました。当時24〜25歳でした。マスコミも市民も大歓迎しました。その3年後には単独世界一周航海にも成功しました。 敗戦の年に生まれた牛島さんは、福岡市の県立筑紫が丘高校に通学しながら博多湾でヨットの腕を磨きました。いま64歳(2009年現在)。芦屋市で女性アパレルメーカーの社長さんを務めています。
これら貴重な資料は能古博物館に寄託され、「博多湾物語」の昭和史を飾っています。
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